はこまち通信の連載ページ「気がつけば函館市民になっていた」は、vol.46が最終回となりました。
長きに渡ってご協力くださった大西剛さんには、この場を借りて心より感謝申し上げます。
過去の連載記事は全てHP「はこまち通信」の「バックナンバー」に掲載済です。
また、5年以上に渡ってご愛読くださったみなさまへのご挨拶としまして、大西さんより原稿を頂戴しましたのでご案内いたします。

 

気がつけば函館市民になっていた

vol.23 最終回【これから先のこと】

〔10年前は、ふた昔〕

 旅行者として函館に通い始めてから約10年、函館に完全移住してから9年目となります。この間、当初見ていた町の景色が、少しずつ変わっていきました。
 朝市では、昔ながらの裸電球が印象的だった「渡島ドーム」(渡島蔬菜農業協同組合ドーム)が「函館朝市ひろば」に姿を変え、函館駅前の商店街からは、アーケードが取り払われました。
 西部地区では、1923(大正12)年築の「青森銀行函館支店」や、同年築の「旧函館無尽」、1922年築の「石塚・イチヤマ商店」、1925年築の「旧金森回生堂」など、金融街や商都の面影を伝える建物が解体されました。「大黒湯」「白山湯」「弥生湯」など銭湯が軒並み廃業しました。
 外見は変わらずとも、元町公園の「旧北海道庁函館支庁」は、館内にあった「函館市写真歴史館」が、新幹線開業とほぼ時を同じくして閉館しました。
 新年早々、寒い話で恐縮ですが、これが現実です。開港以来の歴史の生き証人のような施設や建物が密度高く現存する町並みに惹かれた、ということが函館への移住を決めた理由の一つでしたから残念に思います。
 とはいえ、函館には魅力的な町並みや歴史的景観がまだまだ多く残っています。また、止めようのない「時代の変化」というものは、函館だけの問題ではありませんし、今に始まったものでもありません。
 それでも一つ危惧されることは、「時代の変化」が、以前より恐ろしいほど速くなっているのではないか、ということです。つまり町並みの変化もますます加速されるのではないか。「10年、ひと昔」なんて呑気なものではなく、今や10年は、ふた昔、いやもっと昔なのかもしれません。

〔棒二森屋の記念誌を出版〕

 函館駅前の老舗デパート「棒二森屋」も1月末をもって閉店。新函館ライブラリでは、『棒二森屋物語 幕末から平成まで百五十年の歴史』という本を出版しました。函館ほか道内各地、遠くは関西からも予想を超える問い合わせがあり、棒二森屋で先行発売した初回製本分は、わずか数日で在庫僅少になりました。
 ネット通販の出現はもとより、流通の変化の大波をかぶり、デパートはもはや「小売界の王座」に安住してはいられません。地方都市からデパートが消える、というニュースも繁く耳にするようになりました。市外からも反響があったのは、棒二森屋閉店の話が、他人事ではすまされない、といった類の関心を集めたからかもしれません。

〔売るあてもなくCDを制作〕

 本と並行して、3曲入りの音楽CD“Songs for the people here”を制作しました。その冒頭に、「かつて栄えた地方都市の駅前からデパートが消えるの歌」を収録しています。
 かつて栄えた、などというタイトルに、根っからの地元の人々なら気分を悪くするかもしれませんが、別に「昔はよかったのに…」などと言うつもりはなく、あくまでもありのままの現実を歌にしました。
 東京はオリンピックで盛り上がり、大阪は万博で盛り上がり、大都市圏だけでなく、日本全国、今はインバウンドで盛り上がっています。しかしその一方で、こんな現実もありますよ、という歌です。
 過去を懐かしんでも生産性は上がりません。要は目の前の現実を直視して、これから先、どうするか。
 地方都市に限らず、「ものづくり」の国であったはずの日本で、製造業が空洞化している。それを観光業で穴埋めして、GDPや国際収支の帳尻を合わせているだけでいいのでしょうか。極端な言い方かもしれませんが、そういう思いがありました。
 『棒二森屋物語』は、主に函館市内の書店や「まちセン」内のカフェ・ドリップ・ドロップほかで取り扱っていただいていますが、このCDを売るための「つて」はありません。
 また『棒二森屋物語』は、函館市民や函館に住んだことのある人々が主な読者対象だと考えていますが、CDに関しては、もとより函館市民のみを意識したものではありません。そんなわけで、インターネットのAmazonで、細々ながら全国販売を始めました。

〔函館の昨日、今日、明日〕

 函館はやはり魅力的な町ですし、これからも観光都市であり続ける。そのことにまったく異存はありません。観光は事実として、函館の大切な産業になっています。
 しかし、「今の函館の観光資源というものは、何によって形づくられたのか」を考えると、その答えは、いち早く海外に門戸が開かれた国際性、先進性であり、水産業や海産品加工業、造船業などの第1次、第2次産業の生み出した富であり、本州と北海道をつなぐ交通の要衝であったという立地の優位性だったのではないでしょうか。
 函館の魅力は、「観光開発」によってつくられたのではなく、そういったものの副産物として自然にでき上がったに他なりません。
 「観光開発」もさることながら、将来に向かってそういう副産物を生み出すために、今、何を積み重ねていくべきなのか。それが簡単に見つかれば誰も苦労はいりませんが、観光都市であり続けるためにも、ぜひとも考えるべきテーマではないでしょうか。

 

10年間で消えた風景

(1-1)

(1-2)

(1)函館朝市の渡島ドーム
裸電球が吊され、昔ながらの庶民の市場の雰囲気がありました。2014年、これが建て替えられ、観光施設っぽい雰囲気の「函館朝市ひろば」がオープンしました

(2-1)

(2-2)

(2)函館だいもん商店街
(2-1)の写真は2012年6月撮影。このころは歩道にアーケードがありましたが、2015年に撤去されました。函館駅前交差点の角には、(2-2)の写真のWAKOデパートがありました(2013年11月解体)

(3-1)

(3-2)

(3)キャバレー「未完成」だった建物
北洋漁業華やかなりしころ、大いに賑わった歓楽街・大門で、トップクラスのキャバレーだったという「未完成」。1993年の閉店後も、2014年まで建物は残っていました

(4-1)

(4-2)

(4)ともえ大橋からの眺め
摩周丸の岸壁横には、クラシックカーのミュージアムがありました(2008年閉館、2013年解体)。弁天方面を見渡すと、長らく函館のランドマークとされてきたゴライアスクレーンがありました(2009年解体)

(5-1)

(5-2)

(5)十字街周辺の町並み
レトロな耐火建築が立ち並び、北日本一のカフェ街だった面影をとどめる銀座通り。残念ながら(5-1)の写真の右から2番目の建物は姿を消してしまいました。十字街電停前の洋装店は柏木町に引っ越しし、その建物跡には坂本龍馬の像が立っています

(6-1)

(6-2)

(6-3)

(6)まちセン周辺
函館市地域交流まちづくりセンターの市電通りを挟んだ真向かいには、かつてパチンコ店が営業していたようで、建物や看板が残っていましたが、いつの間にかなくなって、駐車場になりました。まちセン横には、1923年築の青森銀行末広支店もありました

(7-1)

(7-2)

(7-3)

(7)末広町の金融街だった界隈
市電通りと八幡坂の交差点は、4つの角のうち3つにまで、かつて銀行だった建物が現存しますが、2011年までは、さらにその上に旧函館無尽(金融機関)の建物があり、普通の住宅として使用されていました(7-1)。市電通りと日和坂の交差点には、2010年まで旧金森回生堂の建物が残っていて、旧第一銀行函館支店(現・函館市文学館)から旧日本銀行函館支店(現・函館市北方民族資料館)まで、風格ある建物の並びは見事なものでした(7-2・7-3)

 

 

筆者プロフィール 大西 剛(おおにし つよし)さん

1959年生まれ、大阪出身。
2011年秋より函館に移住し、「新函館ライブラリ」を設立。函館本の出版ほか、打ち込みによる音楽づくりに取り組む。近ごろはYouTube(チャンネル名「新函館ライブラリ」)でも、コアな函館情報を発信。2018年秋から冬、『タマと博士の縄文講座 土器と土偶の謎を解く』(タマと佐藤国男著)、『棒二森屋物語 幕末から平成まで百五十年の歴史』(小池田清六著)を立て続けに出版

 

「気がつけば函館市民になっていた」vol.23(Webページのみ掲載です)