幕府は外国の蝦夷地(北海道)近海への出没や、ロシアの南下など多難になったため寛政11年(1799年)蝦夷地を直轄し、防衛のため奥羽諸藩に警備を命じた、日高海岸以東の警備にあたった南部藩の元陣屋がこの坂の上にあったので「南部坂」と呼ばれています。
上記の文章は南部坂を紹介する案内柱に書かれたものです。しかしこの坂、戦前から戦後にかけては,”丸井さんの坂”が通称名でした。
1888年(明治21年)函館の上水道工事が横浜に続き日本で2番目に着手しました。亀田村の赤川からの配管工事の太い管は、この坂地下を導設しています。
まちセンで観光客から、ロープウエイの場所をよく聞かれますが、あの急な坂を登りきった左側にありますが、この場所戦前は、汐見小学校がありました。この学校、母の母校で、弥生小学校から転向となりこの小学校に5年在籍し卒業しています。函館は坂の街、学校が山のふもとに点在しています、廃校になったこの小学校を含め常盤小学校、谷地頭小学校等は、函館のまちを威風堂々み下ろしていました。
この坂の右手は”FMいるか”があり、函館市内に放送電波を送っていますが、昭和7年ここにNKK函館放送局が開局され、放送電波塔が二箇所建てられ同じように電波を流していました。その後NKKが千歳町に移転しこの鉄塔は撤去されています。
このロープウエイ横の急な坂道を利用して戦後よく”竹すべり大会”が開けれていました。冬のレクレーションの少ない戦後の遊びとして子ども達がはしゃぐ姿は今日なかなか見られなくなりました。
by 新城