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2009年06月11日 16:32に投稿されたエントリーのページです。

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田本研造写真集【お取扱商品】

お取扱商品のご紹介です。

ARTIST.PHOTOGRAPH
KENZO TAMOTO

田本研造 写真集
tamoto_kenzou.jpg

値段:3990円(3800円プラス税)

詳しくは、コチラをご覧ください。
 

みなさまこんにちは。おにぎりです。
オタジィラに白黒写真がぎっしり詰まった立派な本が届きました。
『ARTIST.PHOTOGRAPH KENZO TAMOTO 田本研造 写真集』です。


1868年、明治という新しい時代の幕開けと共に、日本としての北海道がつくりあげられていった。
その北海道は、函館を初めとして切り開かれていく。
 
その開拓の歴史を、一人の写真家が追った。
田本研造(たもと・けんぞう)である。
 
田本研造は、1832年、現在の熊野市(三重県)に生まれ、1868年に函館に渡り、写真を学ぶ。
函館戦争を初め、そこから北海道の開拓を写真で追い続けたのである。
 
そして日本を代表する大写真家となっていくのである。
 
 
この写真集には、その歴史と価値のある、ありのままの北海道の姿が田本研造の手によって残されています。
昔の函館、北海道の歴史や文化などの姿496点がこの写真集に収められています。
 

 
 
今回初めて田本研造を知った、私(おにぎり)は、難関函館検定上級合格者で「箱館歴史散歩の会」主宰されている中尾仁彦さんにいろいろとお話を頂き、勉強させていただきました。


nakao_san_2.jpg
( 「これは凄い!」と大絶賛の中尾さん。お買い上げ第一号です!)
 
 
まず、田本研造氏について教えていただきました。
 
 
田本研造は函館に渡って来たときに、足を凍傷で壊死させてしまいます。
その足を箱館ロシア病院で切断します。
しかし、それが縁だったのか、外科医のジェレンスキー医師(※注)にロシア流の写真技術を教わります。
また、こちらも日本を代表する写真家・木津幸吉(きづ・こうきち)にも写真を教わります。

田本研造は以前に長崎でオランダ流の写真知識があったため、それとロシア流をミックス(ロシア流主体)した写真技術を身につけます。

しかし、当時の撮影機材というのは、今とは比べ物にならないくらい大掛かりなもの。
それを、片足のない田本研造は函館だけではなく、飛行機も鉄道もない北海道で、開拓を追っていたことを想像すると、相当の苦労をしたことがわかります。
 
 
それでも写真を撮り続けたことが、北海道写真の先駆者、写真の祖、といわれる所以だと思われます。
 
 
 
また、中尾さんいわく、この写真集は宝の山だそうです。
 
 
・焼けてなくなる前の松前城
現在は中空土偶が北海道最初(※注)の国宝だといわれているが、この消失前の松前城は当時の「国宝」として認定されていた。

・天水のある家
近くに河川がない家には、火事になった際、屋根に飛び火しても消化ができるように、屋根に樽を置いて水を溜めておいた。

・日本で最初の気象台
現在の金森倉庫にあたりに設置され、明治5年に作られたこれが日本で最初の気象台である。ちなみに東京は明治8年。

・天皇歓迎のイギリス領事館
明治9年に函館を訪れた明治天皇を、アーチと花束で歓迎をした。いまや日本でも当たり前の花などでの歓迎。このとき、アーチや花束で「歓迎」をしたことが、日本で初めてであったとされる。

・五稜郭での氷作り
明治初期は、アメリカから船で運ばれてくるしか、氷を手に入れることはできなかった。そしてその使い道のほとんどが医療用。しかし、きれいな水(亀田川)と氷を作るのに適した気温とが相まって、売れる氷づくりに成功した(明治2年)のである。その質の高さから、箱館氷、五稜郭氷と呼ばれ、全国に通用するものであった。
 
 
これらは、異国文化が混ざりあう函館を支えてきた歴史です。
そして、忘れられてはならない大事な歴史です。
今はもうないものばかり。
それらを田本研造は写真におさめ、そしてそれがこの写真集には収められています。

この写真集は函館の写真が多く、他ではなかなか見られない写真も満載。
函館の歴史を知るにはもってこいでしょう。
 
 
また、当時の写真というのは、今のようにシャッターを切れば一瞬で撮れるような写真ではありません。
今ある風景と同じものを写し出すというのは、化学の知識がなければできないものでした。
写真家=化学者とも言えたそうです。それもあり、当時の写真家はとても地位の高いものであったといわれています。
   
  
 
以上のような話を中尾さんからいただきました。
このような話を頂いて、私は函館のことを全然知らない、ということを改めて感じました。
写真はそのものの歴史を映し出すものです。
このような写真から、函館がどんなまちであったのか、函館がどのように栄えていたのか、それをこれらの写真をもとに追うことができます。
 
函館の昔を垣間見ることができ、やはり函館は面白いまちだ、と思いました。
 
  
 
見たことも想像したこともない函館が、この写真集には収められていました。
 
この写真集を見て、函館の歴史を知ることができたなら、函館をもっと好きになれるかもしれません。


オタジィラにてお取り扱い中です。是非。
 
 
 

※注:6/12,17:30訂正しました☆
アルブレヒト医師→ジェレンスキー医師
最大→最初、
*当時の国宝は現行法の「重要文化財」に相当するそうです。

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